上村憲司の政治家人生を振り返る

政治家

新潟県中魚沼郡津南町はあの魚沼産コシヒカリの生産が盛んな地域であり、豪雪地帯としても知られています。2006年の大雪では400センチ以上の積雪を記録するなど、冬はとても厳しい地域です。この津南町で2期8年を務め、後継候補にうまくバトンタッチを行えた政治家がいます。その名は上村憲司さんです。上村憲司さんは1949年2月21日生まれで、現在72歳。上村憲司さんの政治家としての一生を振り返っていきます。

上村憲司さんの経歴

上村憲司さんの出身は、新潟県中魚沼郡津南町で、高校まで津南町で過ごします。高校は津南町にある津南高等学校。1951年に設立され、2008年に惜しまれつつ閉校してしまいましたが、その代わりに津南中等教育学校という中高一貫校が誕生し、パワーアップを果たしています。津南高等学校を卒業した上村憲司さんは日本大学生産工学部に進学します。その後は民間で働くなどして社会人生活を送る中、1987年に新潟県議会選挙に立候補し、初当選を果たします。その後20年にわたって県議会議員として活躍し、2004年には新潟県議会の副議長に選出され、キャリアを重ねます。

しかし、2006年になり、県議会議員選挙への不出馬を表明し、政治家として引退することを明らかにします。20年の県議生活に加え、奥さんの病気を挙げ、引退を決意。その後は会社役員となり第二の人生をスタートさせたかに見えました。

上村憲司さんの第二の政治家人生の幕開け

2009年の年末、上村憲司さんは2010年に行われる津南町の町長選挙への出馬を表明しました。1990年から2010年までの20年間、小林三喜男氏が津南町の町長を務めており、2010年の任期満了で引退することを発表していたのです。平成の大合併が行われる中、決して合併しようとはせず、津南町単独で歩んでいくことを決めた小林氏の思いは、津南町出身の上村憲司さんは重く受け止めており、調整のバトンを受け継ぐのは自分しかいないと決断、政治家人生すべてをぶつける勢いで頑張ることを語ります。

2010年の投票率はなんと84%と高く、町民のほとんどが投票を行っていました。その結果、わずか231票差で上村憲司さんが当選を果たしました。しかし、議会は上村憲司さんに対してあまりウェルカムではなく、直後に行われた補正予算案の提出では修正動議を出され、賛成多数で可決されてしまい、出鼻をくじかれてしまいます。議会とは是々非々で臨み、理解を得ながらも、これまで小林氏が築き上げた「自立の津南」をさらに強化するアイデアをどんどん打ち出していきます。こうして2014年の市長選挙では一騎打ちになりながらも着実に票を伸ばして2期目に突入していくのです。

上村憲司さんが下した決断

上村憲司さんは最初の選挙でわずか231票差で勝利を果たし、1期目の働きぶりが評価され、三つ巴から一騎打ちになったにもかかわらず、票差を突き放して勝利を果たしました。そして3期目には出馬をしないことを明らかにします。そこで上村憲司さんはある決断を下します。それは後継候補を選ぶことですが、ここで選んだのが意外な人物でした。東大大学院の院生でありながら地元津南町の町議選に参加しトップ当選を果たし、以降町議会議員として活動してきた桑原悠さんです。地元津南町は高齢化や少子化が進み、どんどん過疎になっていました。このままでは自分が住んでいた町が衰退し、その環境で子供を育てるのが嫌になると考え、東大大学院生の立場で立候補しトップ当選を果たします。

ふるさとを復活させたいという思いは地元での献身的な活動につながっていきます。その後地元で結婚し、子供を2人生み、産休制度を創設するなどどんどんアクションを起こしていく中、町議会議員としての限界を感じ、町長選挙に打って出たのです。そして、支援者の集まりに参加し、高齢者たちの意見に耳を傾けていく中で周囲もその動きに感化され、応援をするようになります。そして、上村憲司さんが支援を行い、わずか200票弱の差で勝利することに。上村憲司さんが2期8年で作り上げた実績は、未来ある若者世代の女性町長へと引き継がれたのです。

まとめ

自民党系の県議として20年、津南町の町長として8年、政治家人生28年を過ごしてきた上村憲司さん。その功績が評価され、2019年には旭日小綬章を受章します。勲四等とも呼ばれ、国や自治体で功労のある人物に贈られます。栄誉ある勲章を手にした上村憲司さん、その活躍は2期8年の津南町長時代にも色々とあり、桑原悠町長へ引き継がれていきました。紆余曲折の政治家人生ではあったものの、最後までその功績は色あせることなく、輝き続けることになるでしょう。

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