週刊誌で政治生命を絶たれた男 宇野宗佑

政治家
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文春砲が世間を騒がし、文春砲によって答弁内容の変更を余儀なくされるケースが後を絶たないほど、週刊誌のスキャンダル報道は今では当たり前のようになっています。その先陣を切るハメになってしまったのが、宇野宗佑さんです。

ケチだったがために

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宇野宗佑さんは1922年8月27日生まれです。実家は造り酒屋で、祖父は地元の町長を務めるなど、有名な家柄でした。現在の神戸大学へ進学して間もなく学徒出陣となり、シベリア抑留を経験したのちに中退、その後、滋賀県議会選挙に当選し、副議長を務めるなどキャリアを重ねたものの、国政選挙では苦戦、2回目の立候補で当選するも、トップ当選ではありませんでした。

着実に経験を重ね、1967年ようやくトップ当選を果たすなど、力をつけていくと、1974年に田中角栄氏の内閣改造人事で防衛庁長官で初入閣します。しかし、その田中角栄氏にスキャンダルが発覚、たった29日で退陣、宇野宗佑氏の大臣経験はわずか29日で終わってしまいます。

すぐに自民党の国対委員長になりますが、ロッキード事件が発覚し、野党からの追及を交わすのに精いっぱいに。そんな中でもキャリアを重ね、科学技術庁長官や行政管理庁長官などを務め、中曾根内閣では幹事長代理、竹下内閣では外務大臣となります。

リクルート事件で竹下内閣は倒れ、次の総理を探そうとするもリクルート事件に関与した有力議員が多く、しかも、後継総理に目された人物も固辞するなど難航。そこで白羽の矢が立ったのが当時外務大臣を務め、リクルート事件と関係が薄かった宇野宗佑さんでした。

いわば運よく総理になれた一方、就任後わずか3日で、サンデー毎日が女性スキャンダルを報道します。愛人になってくれたらこれだけ出すと3本の指を握ったものの、芸者の相場は1本100万だったのに対し、宇野さんの1本は10万。そんな人物が総理になったのかと呆れ、告発した結果、わずか69日で総理の座を追われてしまいました。

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