総理に近かった男 加藤紘一

政治家

総理に一番近い男と呼ばれる人物は、警戒されやすく、実際は総理になれないことが往々にしてあります。経歴はまさに総理にふさわしい人物でありながら、総理になれなかった政治家がいます。それが加藤紘一さんです。

大将は賭けに敗れる

加藤紘一さんは1939年6月17日生まれです。父親も政治家で、山形県で生まれ育つも、東京へ移住し、都立日比谷高校、東京大学法学部というエリートの道を歩みます。卒業後、外務省に入省し、ハーバード大学などに留学、主に東アジアの外交官の道を歩もうとする中、父親がこの世を去ります。

地盤を引き継ぐことになった加藤紘一さんは、1972年の選挙で初当選し、大平派に所属します。その大平派のトップ、大平正芳氏は総理大臣となり、当選2回で官房副長官に抜擢されます。1984年には中曽根内閣で防衛庁長官で初入閣、1991年には官房長官となりますが、この後、自民党は選挙で敗れ、野党に転落します。

与党復帰後、加藤紘一さんは政調会長、幹事長を務め、自民党の単独過半数復帰を実現させ、1998年には宏池会会長となります。次の総理は加藤氏と言われる中、2000年、加藤の乱がおこります。当時の森喜朗内閣は支持率が低く、このままでは自民党が危ないという危機感がありました。自分たちの派閥で造反をすれば内閣不信任案は可決されると踏んだのです。しかし、そうはさせまいと党の幹部は奔走し、結果的に失敗、宏池会は分裂し、加藤紘一さんの政治力は一気に落ちてしまいます。

その後、秘書が逮捕されて自民党を離党、けじめのために議員辞職し、その後復帰を果たしますが、往年の勢いはなく、加藤さんの実家が放火されるなど事件が相次ぎます。2012年選挙に敗れ、2016年にこの世を去ります。父の無念は娘が引き継ぐ形となり、要職を目指し、キャリアを重ねる日々です。

コメント