総理になれなかった男 河野洋平

政治家

自民党総裁になることは、すなわち日本の総理大臣になることを意味すると思っている人は少なくありません。しかし、自民党総裁を務めながら野党だったために総理になれなかった人が何人かいます。そのうちの1人が河野洋平さんです。

息子にもらった命

河野洋平さんは1937年1月15日生まれで、現在84歳です。父親は自民党結成時に参加していた河野一郎氏で、その地盤を引き継いだ形になります。早稲田大学を卒業後、丸紅に入るとスタンフォード大学留学などを経て会社の社長を務めていました。しかし、1965年に河野一郎氏が亡くなったことで地盤を引き継ぎ、トップ当選を果たします。

自民党のプリンスと呼ばれ、自民党を背負って立つ若手有望株の扱いを受けていましたが、党内の権力争いに巻き込まれる形で、1976年に自民党を離党し、新自由クラブを立ち上げ、党首となります。新自由クラブは激しい浮き沈みを繰り返しますが、1982年に河野洋平さんの師匠でもある中曾根康弘氏が総理大臣になり、自民党が過半数割れになったため、連立政権に参加、自らも大臣となると、1986年に新自由クラブを解党し復党します。

1993年、自民党は惨敗し、歴史上はじめて野党に転落します。総裁になっても総理になれないため、誰もやろうとしない中で立候補し、総裁となります。連立与党が瓦解し、自民党が再び政権を獲得できるとわかっても、現状では難しいと判断、村山富市氏に総理の座を譲り、自らは副総理と外務大臣を務めます。次期総裁選の出馬もできず、結果的に河野洋平さんは総理にはなれませんでした。

1970年代からC型肝炎となり、2000年には生死にかかわる状態にまで進行しますが、息子で地盤を譲った河野太郎氏から肝臓を提供してもらい、手術は成功しました。

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